戦国時代の政治を、ただ奪い合いの物語として読むと、伊勢宗瑞の姿は見えにくい。彼が見たのは、搾取され、飢え、売られていく民の現実だった。そこから始まった制度の組み替えが、後の北条の強さを支える思想になった。
宗瑞はもともと京都にいた幕府の役人だった。今川家の応援として駿河へ入り、現実の地方社会を見る。そこには、年貢に苦しむ百姓がいた。大雨や日照りで収穫が落ちても、同じ量を納めよと言われる時代である。建前は六公四民。十の米が取れれば六を公に納め、四が民に残る。しかし、五しか取れない年にも六を納めよと言われれば、暮らしは破綻する。
四公六民という転換
宗瑞は、制度を維持するためにこれほど高い年貢を取る必要はないと考えた。当時の常識だった六公四民を、四公六民へ変える。六割を納めるのではなく、四割でよいとする発想である。しかもそれは固定的な減税だけではなかった。旱魃や大雨の年には、実際の被害を見て、その年の取れ高に応じて考える。検地をし、現実に合わせる政治だった。
この制度なら、民が飢え死にすることを避けられる。伊豆のように平野が少なく、米作りに向かない土地ではなおさら切実だった。実際に、民の側から「ああいう人が来てくれないか」と宗瑞の到来を望む声が残る。支配は、ただ押しつけられるものではなく、迎え入れられるものにもなり得た。
財産も命も穏やかであるように
宗瑞の人柄を表すものとして語られるのが、虎の印判に刻まれた「禄寿応穏」である。財産も命も穏やかであるように、という意味を帯びる言葉として説明される。これは、武力だけで国を広げる発想とは違う。民が潤わなければ国は強くならないという、統治の論理である。
もちろん、この思想に反対する者もいたはずだ。従来の仕組みで利益を得ていた人びとにとって、四公六民は都合が悪い。それでも宗瑞の方法が広がったのは、安定して税が入り、民が生活を続けられることが、結果として国の力になるからだった。
北条という名が後からついてくる
宗瑞本人は、一般に知られる「北条早雲」という名で生きていたわけではない。伊勢という名を持つ人物だった。後に北条を名乗る流れのなかで、五代百年の初代として北条早雲と呼ばれるようになる。だが名前の変化より重要なのは、彼の政治が後の北条氏の思想として語り継がれたことだ。
徳川家の政策にも北条の影響が多い、と打合せでは語られている。江戸城の作りも含め、後の時代に引き継がれる要素があったという見方である。北条を研究する人が多い理由も、そこにある。強さの源泉が、戦の巧みさだけでなく、民を潤す制度にあったからだ。
氏邦へ伸びる一本の線
鉢形城の北条氏邦は、宗瑞から数えて後の世代の人物である。だが小田原征伐のとき、民と兵の命を守るために秀吉へ助命嘆願を続けた氏邦の行動は、宗瑞以来の北条の思想の延長に見える。民を潤さなければ国は強くならない。民を守らなければ統治は残らない。その考えは、鉢形城の無血開城にまでつながっている。
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