天正18年6月14日、鉢形城は大きな戦闘を伴わずに開いた。戦国の城の落城と聞けば炎と血を思い浮かべるかもしれないが、氏邦の最終章は違う。そこにあったのは、助命を願う手紙と、戦わずに守るという苦い判断だった。

氏邦は小田原北条家3代北条氏康の子として小田原で生まれた。近年は氏康の5男、側室の子とする説が定着している。幼くして藤田泰邦の嫡女大福御前と結婚し、藤田氏の名跡を継いだ。氏邦が鉢形城へ移るまでには、花園城を拠点に北武蔵の若きリーダーとして活動した時期がある。

藤田の婿から、鉢形城の主へ

上杉謙信が関東奪還を掲げて毎年のように関東へ侵攻するなか、氏邦は「藤田乙千代丸」として北武蔵の前線に立った。若き氏邦を支えたのは三山五郎兵衛綱定である。近年、綱定の妹が氏邦の実母だとわかったため、二人は叔父と甥の関係にあったとされる。

綱定は北条氏綱から偏諱を受けるほど重用された人物で、氏邦に北条イズムを仕込んだと考えられる。氏邦はやがて鉢形城を修築し、永禄7年から12年の間に花園城から拠点を移した。そこから上野方面の前線、越相同盟、三増峠、御館の乱、神流川合戦へと、氏邦の戦場は広がっていく。

翕邦挹福という印判

氏邦を読むうえで外せないのが、印判「翕邦挹福」である。「邦」は氏邦の邦であり、「福」は妻の大福御前の福でもある。印文は、鳥が広げた羽を収めるように国同士が力を合わせ、幸福をつかむという意味で解釈される。打合せでは、合衆国構想のようなものだったのではないかという見方も語られた。

同時に、この印判は氏邦の情愛深い人柄も示す。側室を持たず、最後まで大福御前を大切にした人物として語られる氏邦は、戦国武将のなかでは珍しい一面を持つ。政治的には藤田家との結びつきを示す意味もあっただろうが、そこに妻の名を刻んだことは、氏邦の人物像を立体的にする。

小田原作戦への異議

天正17年、小田原北条家は豊臣秀吉との対決に備え、関東各地の有力武将が城兵の半分を連れて小田原城に籠城する作戦を決めた。外郭の城を攻める時間で豊臣方を疲弊させ、小田原本城で決戦に臨むという考えだった。

氏邦はこの作戦に異議を唱えた。自分が信頼関係を築いてきた上野や北武蔵の城を、兵の半分とリーダーを失った状態で盾にすることになるからだ。民も国土も蹂躙される。氏邦は同胞を見殺しにできないと主張し、一人鉢形城に戻ることになった。

秀吉へ届いた詫び言

豊臣方の攻撃が始まると、上野の諸城は次々と明け渡された。6月上旬、忍城方面で合流した軍勢は鉢形城へ向かう。秀吉は6月5日付の手紙で、北条安房守、すなわち氏邦がいろいろと詫び言を言ってきていると記した。別の手紙でも、岩付、鉢形、八王子、忍、津久井の城について、命を助けてほしいと氏邦が願ってきたと書いている。

秀吉は聞き入れなかったように書きながら、筑紫広門宛の手紙の後半では、命の義については氏邦たっての願いなので思案中である、と記した。氏邦の声は、届いていないのではなかった。届いたうえで、秀吉の判断の中に置かれていた。

無血開城の後に残ったもの

6月14日、鉢形城は無血開城した。氏邦は助命され、僧形となって正龍寺に蟄居し、後に前田利家に預けられて加賀へ移る。小田原では氏政、氏照が切腹し、氏直と氏規は高野山へ追放された。北条の時代は終わった。

氏邦は慶長2年、加賀で亡くなった。正龍寺で行われた葬儀の際には、葬列が山のかなたまで途切れなかったと伝えられる。戦わずに開けた城の最後は、敗北の物語であると同時に、家臣や領民を裏切らなかった人物の記憶でもある。

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