寄居町の中心を流れる荒川の右岸、その断崖の上に城はあった。天守も満々と水をたたえた堀もないその場所に立つと、むしろ何もないことが、ここで起きた114年を想像する余白になる。

鉢形城について語られる定番の説明は、小田原北条氏の北関東の拠点であり、北条氏邦が豊臣秀吉方に開城した城、というものだ。間違ってはいない。だが、それだけでは城の輪郭はあまりに薄い。史料で確認できる範囲だけでも、鉢形城は室町時代中期から戦国時代にかけて114年ものあいだ名を残し、城主も一人ではなかった。

戦国は、京都の乱より早く関東で始まっていた

関東の混乱は、応仁の乱より13年早い享徳3年、1454年に始まっていた。鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺し、幕府将軍方との抗争に入る。京都に将軍があり、鎌倉に東日本の将軍である公方があり、その公方を補佐する関東管領がいた時代の秩序が、関東から先にほどけ始めた。

この大きな乱のなかで、利根川の西では上杉グループが力を持ち、東では足利方の勢力が続いた。鉢形城の物語は、この構造のただなかで始まる。城は、後の観光地としてではなく、誰が関東の秩序を握るのかという切迫した問いの上に築かれた。

長尾景春は、奪われた席のために城へ入った

史料上、鉢形城を拠点としたことが確認できる最初の人物は長尾景春である。祖父と父が関東管領上杉氏の家宰を務めた家に生まれた景春は、関東の上杉体制を支える家の嫡男だった。ところが文明5年、父景信が急死した後、景春は後継の家宰に指名されず、叔父の長尾忠景が任命される。

それは個人の不満だけでは終わらなかった。家宰の権益に支えられていた景春の同胞や家臣たちは収入を絶たれ、景春は彼らの受け皿として鉢形城を整備した。文明8年6月ごろ、オール上杉軍の大本営だった五十子陣を退去し、鉢形城に入る。翌年正月、景春方が五十子陣を攻撃し、長尾景春の乱が起きた。

景春は単に家宰になれなかった恨みで反乱を起こしたのではない。既得権益を失い、行き場を失った人びとの期待に押し出され、室町的秩序の裂け目から鉢形城へ向かった。城は最初、関東管領上杉氏に対する反乱拠点として整備されたのである。

上杉顕定の32年が、鉢形城を関東管領の本拠にした

景春の乱が収束へ向かった文明10年夏、上杉顕定が鉢形城に入城する。顕定は享徳3年生まれ、幕府将軍足利義政の信頼を受けた越後守護上杉房定の次男で、12歳で関東管領に任命された人物だった。鉢形城には32年間いた。史料上、最も長くこの城を拠点とした人物である。

顕定入城にあたって強く勧めたのが太田道灌だった。道灌は、鉢形城が「地形肝要」であり、武蔵と上野ににらみが利く場所だと主張した。荒川と深沢川に挟まれた天然の要害で、鎌倉街道にも近い。ここに朝廷から下された天子の御旗を据えるべきだという判断は、鉢形城を地方の城から関東管領の本拠へ変えるものだった。

顕定の時代、鉢形城は軍事拠点であると同時に文化の舞台でもあった。長享2年、連歌師の万里集九は太田資康の陣を訪ね、戦の最中にもかかわらず酒を酌み交わし、歌を詠み、36日間滞在した。最後の晩の歌会には顕定も参加し、翌日、二日酔いの集九は鉢形城に一泊する。集九は鉢形城を、鳥も窺いがたいほど堅固な城壁として詠んだ。

古河公方家から迎えた二人は、短い時間で消えていった

永正7年、顕定が越後で戦死すると、後を継いで関東管領に就いたのは上杉顕実だった。顕実は古河公方家の子で、顕定が公方家と管領家の絆を深め、政権運営を安定させようとして養子に迎えたと考えられている。だが、その構想は長く続かない。

顕定とともに越後へ行っていた上杉憲房が関東に戻ると、関東管領の座をめぐる抗争が起きた。永正9年6月、憲房は顕実が東上野に出陣した隙をついて鉢形城を攻める。城は三日も持たずに攻略されたという。顕実は帰る場所を失い、その後の動向もはっきりしない。

その後、上杉憲寛も短く鉢形城を拠点にした可能性が語られる。古河公方家から迎えられた憲寛は、憲房の養子として後継者に指名されたが、憲房に実子憲政が生まれたことで確執が生じた。享禄4年に抗争が決着すると、幼い憲政が関東管領となり、憲寛は上総へ退いた。鉢形城は、北条氏邦が入るまでの三十数年間、歴史の表舞台から姿を消す。

北条氏邦は、最後まで民の命を差し出さなかった

鉢形城最後の主として現れるのが北条氏邦である。天文17年ごろ、小田原北条家3代北条氏康の子として生まれた氏邦は、藤田泰邦の嫡女である大福御前と結婚し、藤田氏の名跡を継いだ。若くして北武蔵のリーダーとなり、やがて花園城から鉢形城へ拠点を移す。

氏邦は、上杉謙信との抗争、越相同盟、三増峠、御館の乱、神流川合戦、上野方面の指南役という激しい前線を歩いた人物だった。だが、この物語の核心は勝敗の記録ではない。天正17年、小田原北条家が外郭の城を盾にし、小田原本城で決戦に臨む作戦を決めたとき、氏邦は異議を唱えた。

その作戦は、信頼関係を築いてきた城や領民を見殺しにするものだった。氏邦は同意できなかった。結果として氏邦は一人鉢形城に戻り、豊臣方に対する北国方面の軍事指揮をとる。秀吉には、鉢形、忍、八王子、岩付、津久井などの城について助命を願う詫び言を再三申し入れた。

秀吉は手紙のなかで、氏邦の願いは聞き入れなかったと書きながらも、命の義については思案中であると記している。そして天正18年6月14日、鉢形城は大きな戦闘を伴わず無血開城した。氏邦は助命され、僧形となって正龍寺に蟄居し、のち前田利家に預けられて加賀へ移る。

石垣のない城に残ったもの

鉢形城を語るとき、そびえ立つ石垣や天守はない。満々と水をたたえた堀もない。それでもこの城には、景春の失権回復へのもがき、顕定の関東秩序への執念、顕実と憲寛の短い政権構想、そして氏邦の助命嘆願が重なっている。

彼らは、それぞれ自分が信じる理想の実現に向かった。景春は既得権益を奪われた仲間のために主家へ反旗を翻し、顕定は室町幕府的な秩序の維持によって関東の平和を願い続けた。氏邦は、豊臣の大軍を前にしても、自分のプライドより兵と民の命を優先した。

114年の鉢形城は、勝者の城ではない。時代の波に呑み込まれていった人びとが、最後まで何を守ろうとしたのかを残す城である。荒川の崖の上に立つとき、そこに見えるのは土の起伏だけではない。関東の戦国時代そのものが、ここから見える。

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