鉢形城と聞くと、多くの人は「小田原北条氏の北関東の拠点」「北条氏邦が豊臣方に開城した城」と思い浮かべるかもしれません。もちろん、それは間違いではありません。けれど、それだけで鉢形城を語りきることはできません。
鉢形城は、室町時代中期から戦国時代の終わりまで、約114年にわたって史料に名を残す城です。しかも、城の主役は一人ではありません。長尾景春、上杉顕定、上杉顕実、上杉憲寛、北条氏邦。人物を順番にたどると、鉢形城が関東の戦国史の中でどのように姿を変えていったのかが見えてきます。
なお、鉢形城には平将門、源経基、畠山重忠に関わる伝承もあります。これらは史料で裏付けられる話ではありませんが、古くからこの土地が重要な場所として見られてきたことを考える手がかりにはなります。ここでは、史料で確認できる室町時代中期以降の流れを中心に見ていきます。
長尾景春: 反乱の拠点としての鉢形城
史料で確認できるかぎり、鉢形城を拠点にした最初の人物が長尾景春です。嘉吉3年、1443年ごろ鎌倉に生まれ、永正11年、1514年に亡くなったとされます。鉢形城にいた時期は、文明8年、1476年ごろから文明10年、1478年ごろまでの約2年間です。
景春は、関東管領上杉氏の家宰を務めた家の嫡男でした。家宰とは、家臣団を代表するような重要な役です。祖父と父が二代にわたってその地位にあったため、景春は上杉体制を支えるエリートとして育ちました。
ところが文明5年、1473年、父の景信が急死すると、景春は後継の家宰に選ばれませんでした。代わって任命されたのは、叔父の長尾忠景です。これは景春個人の不満では済みませんでした。景春の家に連なり、家宰の権益によって支えられていた同胞や家臣たちは、関東各地で収入や立場を失う危機に直面したのです。
景春は、そうした人びとの受け皿として鉢形城を整えます。そして文明8年、オール上杉軍の大本営だった五十子陣を退去して鉢形城に入りました。翌文明9年正月、景春方は五十子陣を攻撃し、長尾景春の乱が始まります。鉢形城はこのとき、関東管領上杉氏に対する反乱拠点となりました。
景春は一時、古河公方足利成氏の支援も受け、関東管領方をしのぐ勢いを見せます。しかし太田道灌が参戦すると形勢は変わります。用土原の合戦では激戦の末に景春が敗れ、富田方面へ退きました。その後、古河公方と関東管領方が電撃的に和睦すると、景春は大義を失っていきます。
文明10年、景春は鉢形城を失い、秩父方面へ逃れました。さらに文明12年、秩父の日野要害も太田道灌に攻略され、景春は没落します。これまで景春は「家宰になれなかった恨みで乱を起こした人物」と簡単に語られることがありました。しかし実際には、所領や権益を失いかけた人びとの期待を背負い、変わりゆく関東の秩序の中でもがいた人物だったのかもしれません。
上杉顕定: 関東管領の本拠となった時代
次に鉢形城の主役となるのが上杉顕定です。享徳3年、1454年、越後国で生まれました。文正元年、1466年、12歳で関東管領に任じられ、亡くなるまで44年間その地位にあり続けた人物です。
顕定が鉢形城に入ったのは、長尾景春の乱が収束に向かう文明10年、1478年夏ごろです。そこから永正7年、1510年6月まで、約32年間にわたって鉢形城を拠点にしました。史料上、最も長く鉢形城を拠点とした人物です。
顕定の鉢形入城には、太田道灌の強い勧めがあったといいます。道灌は、鉢形城を「地形肝要」の地と見ました。荒川と深沢川に守られ、武蔵と上野ににらみが利くこの場所こそ、関東管領の本拠にふさわしいと考えたのです。鉢形城はここで、反乱の城から関東政治の中心拠点へと性格を変えました。
顕定の時代の鉢形城は、戦の城であると同時に、文化の場でもありました。長享2年、1488年、連歌師の万里集九が太田資康の陣を訪ね、戦の最中にもかかわらず36日間滞在しています。最後の歌会には顕定も参加しました。その翌日、集九は鉢形城に泊まり、鉢形城の城壁を「鳥も中をうかがえないほど堅固」と詠んでいます。顕定入城から10年ほどで、鉢形城が関東管領の本拠として整えられていたことがうかがえます。
しかし顕定の時代も平穏ではありません。太田道灌が主君の上杉定正に殺されると、山内上杉氏と扇谷上杉氏の抗争、いわゆる長享の乱が起こります。実蒔原、須賀谷原、高見原などで合戦が続き、顕定は鉢形城を拠点に関東の秩序を守ろうとしました。
明応5年、1496年には、古河公方足利政氏を鉢形城に迎えたと考えられます。大所帯の公方一行が長期間滞在できるほど、鉢形城とその周辺は整備されていたのでしょう。鉢形城は単なる軍事拠点ではなく、関東の政治を動かす場所になっていました。
晩年の顕定は、古河公方家の内紛や越後の混乱にも巻き込まれます。実弟の越後守護上杉房能が長尾為景に攻められて自刃すると、顕定は越後へ出陣しました。その留守中、関東では公方家の争い、伊勢宗瑞の進出、長尾景春の出奔などが重なります。顕定は手紙で「鉢形・忍の両城は堅固であることが第一」と記し、関東を案じ続けました。
しかし永正7年、1510年6月20日、顕定は関東へ戻る途中、越後の長森原で討たれます。最後まで関東の平和維持を願った顕定の死によって、関東はさらに深く戦国の時代へ入っていきました。
上杉顕実: 古河公方家から来た関東管領
顕定の後を継いで関東管領となったのが、上杉顕実です。生年は不明で、永正12年、1515年ごろに古河で亡くなったとも考えられています。鉢形城にいた時期は、永正7年、1510年6月から永正9年、1512年6月までの約2年間です。
顕実は古河公方家の子で、顕定が養子に迎えた人物とされます。古河公方家と関東管領家の結びつきを強め、関東の政権運営を安定させる狙いがあったのでしょう。
ところが、顕定とともに越後へ行っていた上杉憲房が関東に戻ると、関東管領の座をめぐる争いが始まります。越後守護になる道が閉ざされた憲房は、関東での存在感を得るため、顕実と対立しました。古河公方家の親子対立も重なり、関東は再び二つに分裂します。
永正9年、1512年6月、憲房は顕実が東上野へ出陣した隙をついて鉢形城を攻めました。鉢形城は三日も持たずに攻略されたといいます。帰る場所を失った顕実は、古河へ逃れたと考えられますが、その後の動向ははっきりしません。鉢形城はまた、関東管領の継承争いのただ中に置かれたのです。
上杉憲寛: 鉢形城にいたかもしれない人物
もう一人、鉢形城に関わった可能性がある人物が上杉憲寛です。生年は不明で、天文20年、1551年に上総国で亡くなりました。鉢形城にいた可能性があるのは、大永5年、1525年から享禄4年、1531年ごろまでです。
永正9年に鉢形城を攻略した上杉憲房は、鉢形城ではなく上野の平井城を拠点にしました。これによって、文明10年以来34年間にわたり関東管領の本拠だった鉢形城は、しばらく歴史の中心から離れていきます。
憲房には当初実子がいなかったため、古河公方足利高基の子である憲寛を養子に迎え、後継者にしました。ところが後に実子の憲政が生まれます。憲房の死後、憲寛と憲政の間には対立が生まれ、抗争へ発展しました。
憲政が平井城を拠点にしていたため、対立する憲寛は別の場所を拠点にしたはずです。確実な史料はありませんが、古河からも上野からも距離を取れる鉢形城が、その候補だった可能性があります。享禄4年ごろに抗争が決着すると、幼い憲政が関東管領となり、憲寛は上総へ退いたようです。その後、北条氏邦が入るまでの三十数年、鉢形城は表舞台から姿を消します。
北条氏邦: 鉢形城最後の主
最後に登場するのが北条氏邦です。天文17年、1548年ごろ、小田原北条家3代当主北条氏康の子として小田原に生まれました。かつては氏康の3男、あるいは4男ともいわれましたが、近年は5男で側室の子とする見方が定着しています。幼名は乙千代丸、通称は新太郎、受領名は安房守です。
氏邦は幼くして、北武蔵の有力者だった藤田泰邦の嫡女、大福御前と結婚し、藤田氏の名跡を継ぎました。8歳から12歳ごろのこととされます。上杉謙信が関東奪還を掲げて毎年のように関東へ侵攻するなか、氏邦は「藤田乙千代丸」として北武蔵の若きリーダーになっていきました。
若き氏邦を支えたのが、藤田氏一門の三山五郎兵衛綱定です。近年、綱定の妹が氏邦の実母であることがわかり、二人は叔父と甥の関係にあったと考えられます。綱定は北条氏綱から一字を受けるほど重用された人物で、氏邦に北条氏の統治感覚を教え込んだ存在だったのでしょう。
氏邦ははじめ藤田氏の本拠である花園城に入り、謙信が関東へ来ると小田原へ戻り、謙信が越後へ戻ると北武蔵の諸将を北条方へ戻す働きをしたと考えられます。その後、鉢形城を修築し、永禄7年から12年、1564年から1569年の間に花園城から鉢形城へ拠点を移しました。氏邦17歳から22歳ごろのことです。
鉢形城に入った後の氏邦は、上野方面の最前線を担いました。上杉氏と北条氏が和睦した越相同盟では、上杉謙信との取次役を務め、武田信玄が鉢形城下に火をかけ小田原へ向かった際には、兄の氏照とともに三増峠で戦いました。御館の乱では弟の上杉景虎を助けるため越後へ向かい、武田家滅亡後には滝川一益を神流川合戦で退けます。
やがて氏邦は箕輪城を拠点に、上野方面の武将たちとの信頼を広げていきました。北条本家との取次や軍事指揮を担い、最終的には小田原北条家の中でも本家、八王子に次ぐほどの序列に上がったとされます。五千騎を指揮するほどの大きな存在になっていったのです。
氏邦を象徴するものに、印判「翕邦挹福」があります。「邦」は氏邦の邦、「福」は妻の大福御前の福とも読めます。国同士が力を合わせ、幸福をつかむという意味を含む印文は、氏邦が築こうとした信頼の世界をよく表しています。
小田原征伐と助命嘆願
天正17年、1589年、名胡桃城事件をきっかけに、豊臣秀吉による小田原攻めが決まります。北条方は、関東各地の有力武将が城兵の半分を連れて小田原城に籠城する作戦をとりました。外郭の城攻めで豊臣軍に時間を使わせ、小田原本城で決戦するという考えです。
氏邦はこの作戦に異議を唱えました。自分が必死に築いてきた上野や北武蔵の信頼関係を踏みにじり、民も国土も犠牲にする作戦には同意できなかったのです。氏邦は鉢形城に残り、北国勢に対する軍事指揮をとることになりました。
天正18年、1590年3月から豊臣方の攻撃が始まります。松井田城、河越城、松山城、岩槻城などが次々と落ち、6月上旬には忍城方面で合流した軍勢が鉢形城へ向かいました。
このとき氏邦は、独自に助命嘆願を続けていたことが、豊臣秀吉の手紙からわかります。6月5日付の筑紫広門宛の手紙には、北条安房守、つまり氏邦が色々と詫び言を言ってきているとあります。6月7日付の加藤清正宛の手紙にも、岩付、鉢形、八王子、忍、津久井の城について、命を助けてほしいと氏邦が願ってきたことが記されています。
願いがすべて通ったわけではありません。岩付城や八王子城では大きな犠牲が出ました。それでも秀吉は、氏邦たっての願いである「命の儀」については思案していました。氏邦の声は、届いていなかったのではありません。届いたうえで、秀吉の判断の中に置かれていたのです。
そして6月14日、鉢形城は大きな戦いを伴わずに開城しました。氏邦は助命され、僧形となって正龍寺に蟄居し、後に前田利家に預けられて加賀へ移ります。7月には北条氏直が秀吉に降伏し、氏政・氏照は切腹、氏直と氏規は高野山へ追放されました。小田原北条氏の時代は終わりました。
氏邦は慶長2年、1597年8月8日、加賀で亡くなります。享年50。正龍寺で葬儀が行われた際には、葬列が山のかなたまで途切れなかったと伝えられます。氏邦が家臣や領民から深く慕われていたことを物語る話です。
石垣や天守がなくても、物語は残っている
鉢形城には、そびえる石垣も、満々と水をたたえた堀も、天守もありません。けれど、この城には、ここを拠点にした人びとの判断が重なっています。
長尾景春は、失われた立場を取り戻そうとする人びとの期待を背負い、関東管領に反旗を翻しました。上杉顕定は、戦国大名化の波に飲み込まれながらも、室町幕府的な秩序によって関東の平和を守ろうとしました。上杉顕実と上杉憲寛の短い時代には、関東管領の継承をめぐる混乱が映し出されています。そして北条氏邦は、豊臣秀吉の関東侵攻の中で、最後まで兵と民の命を守ろうとしました。
彼らは鉢形城で喜び、苦しみ、迷い、やがて時代の波にのまれて姿を消していきました。その一面を知ることができれば、石垣や天守がなくても、鉢形城はずっと近い場所に感じられるはずです。
